森保監督はほいけんたに似ている

ワールドカップが盛り上がっている。

特に日本戦はいつもながら盛り上がっており、好成績を残していることもあってテレビでは連日取り上げられている。中継があれば渋谷の街の様子をうかがい、あーこれは大変盛り上がってますねという感じになる。

ここまで平熱の文章が続いていることでお分かりだと思うのだけど、自分はサッカーに関しては特に思い入れがない感じである。代表メンバーが誰か全然わからないし、「森保監督ってほいけんたに似てるな」と思っていたりする(目の小ささとか)。

というわけで、この盛り上がりについてもあまり乗れていない。スクランブル交差点の喧騒はもちろんのこと、「日本人の誇りです!」みたいな街頭インタビューにも「その”日本人”に勝手に入れられても」と思ったりする。

そんな感じで一時期は冷ややかな目をしていたのだけど、最近「この盛り上がりに一緒にノれることっていいことなんだろうな」と思えるようになってきた。

きっかけはどうあれ、大きな声で感情を爆発させて自分を解放させられる機会があるのは、感情を溜め込むことよりも、よほど健康的だろう。サッカーに詳しくても、にわかでも、それは変わらないだろう。なんならサッカーじゃなくたってよくて、他のスポーツでも、音楽フェスでも、お笑いライブでもいいだろう。

そう考えると、あの一喜一憂がとても羨ましく思えてくる。自分には感情を爆発させられる機会ってあったかな。みんなにはあるのかな。

ただくれぐれも深夜はお静かに。

みんな手酌でみんないい

集まってお酒を飲むこともすっかりなくなってしまった。飲み会は遠い思い出の彼方に。そこで思い出すのは、グラスセンサーを持つ人のことだ。

人のグラスが空になると、すぐにお酒を注ぐ人がいる。僕なんかは本当にぼんやりお酒を飲んでおり、誰がどれくらいお酒を飲んでいるのかなんて全く気にしないのだけど(それで若いころは上司に怒られたりしたけど)。

でも世の中には、センサーでもついてるのかなというくらいのスピードで「注ぎましょうか」と瓶ビールを掲げる人がいるのだ。上下関係とかない、フラットな場だとしても。そういうマナーのもとで育てられたのだろうけど、誰かのグラスを常に視界に入れながら飲むのは大変だろうなぁと思う。

というか、このマナー自体「俺のグラスが空になったのに気づかないのか」という昭和の臭いをうっすらと感じる。良くない。グッバイ昭和。みんな手酌でみんないい。そんな世の中を目指そうではないか。日本手酌党の旗揚げである。

日本手酌党は誰かのお酒の進み具合を気にしない。「飲まないんですか?」と聞かないし、ましてや飲むことを強制しない。自分のお酒のことは自分でやり、ビール瓶の中身がなくなったらみんなの分を頼む。自助と公助の両立である。

しかし、コロナ禍で飲み会の数は激減。日本手酌党は活動の場(笑笑など)を失い、すわ解散かと思われたが、ステイホームにより手酌人口は一気に急増。若年層から高齢者まで幅広く党員を確保し、次の国政選挙に向け地盤を着実に固めるのであった。なんの話でしたっけ。

3時間アトラクション

人間ドックを受けてきた。

健康診断の類はフリーランスなので全部自費なのだけど、健保の補助もあるし、なにより何か見つかるなら早いほうがいい。それが家族のためでもあるのだ…と強い決意でバリウムを飲んだのだった。

いま勢いでバリウムの話をしたけど、胃のX線検査はラストに用意されていた。採血、身長体重、心電図、超音波検査などもろもろこなしたあと、バリウムを飲んで身体をぐるぐる回される。まさにフィナーレにふさわしいアトラクションである。

すっかり体力を消耗し、バリウムを出すための下剤を飲み、人間ドックはおしまい。結果を医師から聞くことになっているのだが、それは3時間後なので、それまで外に出てまた来てくださいと言われる。はーい、と素直に従うものの、施設を出てふと気がついた。

下剤を飲んだ状態で3時間街をぶらつく……?

 

こんなスリリングなことがあるだろうか。いつなんどき下剤が発動するかわからない。どこかのお店でお茶を飲んでるときに発動しても、その店のトイレが空いている保証はない。まして歩いている最中とかどうなってしまうのか。

いつタイムリミットがくるのかわからない街ブラ。膨らみ続ける風船をパスしていって割れた人が負け、みたいなゲームを一人でやってるみたいなスリル。

ハラハラしながら、なにかと店舗が多かろう横浜駅方面に向かい、結論から言うと駅ビルでことなきを得た。危なかった。ここまでがフィナーレのアトラクションに含まれていたのかもしれない。

「ガニメデで待機後、金星にお越しください」

日本科学未来館に行ってきた。お台場は曇り、午後から雨。

行く前に息子と、「科学館といえばガラスの球の中でピンクの電気がビリビリしてて手を近づけるとビリビリ!ってなるやつあるよね」と科学館あるあるで盛り上がっていたが、あのピンクのビリビリはなかった。

なんというか、いわゆる「科学館」のイメージとはまた違う、「科学が未来に何をすることができるのか」という可能性と、「このままでは未来はどうなってしまうのか」という警鐘と、「未来は君たちに託されている」という子どもたちへのメッセージを端々に感じる展示たちだった。未来を真剣に考えている人がいることを心強く思う。

未来はモヤがかかっていて、その姿ははっきりとわからない。でも「わからなかったことがわかる」とき、ほんの一部だけそのモヤが晴れる。

晴れた部分が何の役に立つのか、すぐには分からないかもしれない。でも少しずつ晴れの部分が増えていけば、今やれるべきことがわかるだろう。それが科学の役割のひとつなのだろう。

日本科学未来館の7階には展望ラウンジがあり、お台場の景色がよく見えた。同じフロアにはカンファレンスルームがあって、会議室には惑星、控室には衛星の名前がついているのがカッコよかった。

「ガニメデで待機後、金星にお越しください」って言われてみたい。

スプーンを延ばす

スプーン曲げをする人は、スプーンの細い部分をこすりながら「柔らかくなってきました」と言う。

自分はスプーンを曲げたことがないから分からないけど、そういうものなのだろうな、と思う。金属をこすりながら強く念じる。やがてその部分は熱を帯び、柔らかくなって、思うままに形を変える。

…ということは、そこをグッ!っと押したら平べったくなるんじゃないだろうか。

金属には叩くと薄く広がる「展性」、引っ張ると細く伸びる「延性」という性質がある。あの細い部分を柔らかくして、グッ、グッって延ばしていけば、一回りでっかい薄いスプーンができたっていい。

なんならフォークの先端を柔らかくして、グッって押して平べったくしたら、フォークをスプーンにできるはずだ。

スプーン曲げのネクストステージだ。最初は薄く延びるだけで歓声があがっていたが、やがて細かい細工をほどこす能力者も現れる。スプーンは曲げる時代から、加工する時代へ。

そのうち「制作時間30時間」みたいな大作ができて、もう超能力じゃなくて金属加工の人として評価されたりする。それでヒルナンデスとかでる。

陸上選手になったらスタート前に「ゲッツ!」ってやってしまいそう

テレビで世界陸上をやっている。

100mとか200mの選手が走る前に、カメラが選手ひとりひとりを映す時間がある。わざわざ選手の正面までカメラが行って、何秒か映して、次の選手に行く。映されているあいだ、選手はガッツポーズしたり、カメラを指差したり、映っているのはわかってるけど俺は集中してるからみたいな顔して、それぞれアピールしている。

こういうの、陸上以外であまり見ない気がする。これから本番だというのに、よくアピールする余裕があるなぁ……と思う。だって絶対緊張するでしょう。それまでめっちゃ練習してきて、あんな晴れ舞台に出て、テレビでよその国の知らん人が見てる。そんな状況でアピールできるのも一流選手の証なのだろうか。

逆に自分だったらと思うと怖い。無表情で立っているのも気まずいし、かといって緊張しているのを他の選手に知られたくない。とはいえ「いえ〜い」ってふざけるのも怒られそう。変顔もダメだろう。うっかり「ゲッツ!」とかやってネットニュースになるのも困る。

順番も怖い。自分が8コースにいて、1コースから順々にカメラが回ってくる。あのパターンも、このパターンもみんなやられ尽くしたあとに自分の番が来る。これから走ることに集中したいのに、頭の中は「ゲッツはもうやられちゃったから……」みたいな迷いでいっぱい。なんとかやり過ごしても「やっぱりさっきの違ったな……」って反省しているうちにスタートに出遅れそう。もうだめだ。

走る前から勝負は既に始まっている。あとラヴィット!が1週間お休みなので寂しい。

忍者村の人かと思ったらメルヘン村の人

「忍者村」を運営する会社が、「メルヘン村」を運営する会社を買収したらしい。

佐賀)忍者村がメルヘン村を買収 嬉野温泉と武雄温泉:朝日新聞デジタル

佐賀県嬉野市の「佐賀元祖忍者村 肥前夢街道」を運営する株式会社「マール」(光岡勝社長)は13日、武雄市の「森の遊園地 武雄・嬉野メルヘン村」を運営する新肥前観光(竹内亮社長)の株式を7月1日までに100%取得して子会社にすると発表した。

もちろん中身は企業同士の経営のあれやこれやだけど、「忍者村がメルヘン村を買収」という文字だけ見ると、メルヘン村でキャッキャうふふしていたところに、ひっそりと忍びの者が手を回していた、みたいな絵がどうしても浮かんでしまう。ピンク色の世界に墨汁を一滴垂らしたような不穏さがある。

さらに記事にはこうある。

今回の買収後も営業は続ける。メルヘン村の竹内社長は退任し、忍者村の光岡社長が兼務する。メルヘン村の従業員が忍者村で働くなど行き来をして、コスト削減や人材確保につなげるという。

メルヘン村の従業員が忍者村で働くのだ。忍者村の人かと思ったら、その正体はメルヘン村の人なのである。これではどっちが忍者かわからない。

メルヘン村の村民たちの中には、今回の買収に忸怩たるものを感じている人もいるだろう。いずれ忍者村からメルヘン村を取り返そうと、裏で決起しているかもしれない。

まずは忍者村の従業員として働き、中枢部に食い込むなどして、弱みを探るフェーズとなるだろう。そこにはメルヘンなど欠片も無い。現実あるのみ。

なおメルヘン村には観覧車やコースターなどがあり、「リスやウサギなど動物と触れ合えるコーナーが人気」だそう。忍者村の資本が入ったら「観覧車から脱出できるようにしろ」「リスに文書を持たせ仲間に届けるコーナーはどうだ」とか提案されるのだろうか。なんかそれはそれで興味はあるけれども。

「直筆原稿が見つかった」はこれからどうなるのか

たまに「作家の直筆原稿が見つかった」というニュースを見かける。

古い家を整理していたら出てきたとか、蔵を掃除していたら出てきたとか、そんな感じで原稿用紙の束が見つかる。そこには未発表の原稿だったりとか、創作のメモだったりとか、誰々に宛てた手紙とかがあって、その作家がどんな思索の中にあったのかなどが明らかになる。

でもPCで原稿を書くことが主流になった今、どんどんそんな機会はなくなるだろう。直筆原稿なんてないもの。メモが見つかったとしても「この時代からPCで文字を書くことが主流になり、漢字を忘れていく様子がうかがえます」と言われるだろう。

PCに残っていたファイルなんかはすぐ見つかるだろうし、あとになって見つかるものってなんだろう、と考えると、これはクラウドじゃないか。

なんらかの新しいサービスが出る、それはメモを記録したり整理したりするのに便利なやつで、最初はおぉ確かに便利かもと使う。でも段々面倒になって使わなくなる。それを繰り返す。すると、「ちょっとだけ使ったサービス」があちこちに残る。

大作家の死後しばらくして、在野の研究家が「このアカウントはあの先生が使っていたものではないか」と発見する。それをきっかけに、同じアカウント名であちこちのサービスが使われていたことがわかる。

Evernoteに大量のメモが残っていたことが分かり大騒ぎになる。WorkFlowlyであの名作のアウトラインを考えていたのが分かる。違う名前でnoteをしばらく続けていたもののしっくり来てない様子が分かる。Notionにちょっと手を出してやめたのが分かる。

ちなみにTwitterの裏垢はとっくの昔に見つかってスクショが出回っている。たいへんだ。

そういえばワープロで原稿を書いていたころの作家だとどうなるんだろう。「書院のフロッピーディスクが見つかった」とかになるんだろうか。読み込めるといいけど。

シュレディンガーの軽部

『めざましテレビ』に、めざましテレビを知らなかった新人アナが新たに加入するというニュースを見た。

なんでも、その新人アナの地元・青森県では『めざましテレビ』が放送されておらず、採用面接の時にはじめて軽部アナの存在を知ったほどだという。番組のチーフプロデューサーは「逆に面白い」と起用したそうだ。「なんでこんなタイミングでジャンケンするんですか?」とか思うだろうか。まるで異世界転生のような人事である。

で、ここで気になったのは「軽部アナの存在を知らなかった」ことだ。

青森県ではフジテレビ系列が映らないらしく、となればフジの局アナを知らないのも仕方ないだろう。ただ、私たちも果たして『めざましテレビ』以外で軽部アナを見るだろうか。見ないんじゃないか。そりゃ知らなくてもしょうがないのではないか。

私たちは『めざましテレビ』を見れば、そこに軽部アナの存在を感じることができる。朝方テレビをつけるまで、軽部アナはこの世に存在しているのかわからないと言い換えてもいいだろう。

つまり、テレビという箱の中の軽部アナは、存在している状態としていない状態が重なりあって存在しているのではないか。

それはまるであの猫のように…と思ったところで「今日のわんこ」と共に『めざましテレビ』は終わり、軽部アナの存在は再び宙に浮く。

鳥人間(らしさを総合的に評価する)コンテスト

今日『鳥人間コンテスト』があったのに見逃してしまった。どへくらい飛んだのだろう。子どものころ見た鳥人間コンテストはまだ「仮装部門」みたいなのがあって、面白い格好で高いところから飛ぶ人たちをしばらく見る時間があったりしたものだけど、今や琵琶湖の端に行って帰ってきて折り返してと異次元の世界である。関空から飛ばせてもらったら小豆島に着くんじゃないだろうか。

それにしても「鳥人間コンテスト」である。字面そのままを受け取れば「いかに鳥人間であるかを競うコンテスト」だろう。となると、テレビの「鳥人間コンテスト」は鳥について「飛ぶ」という一面しか見ていない。「鳥人間らしさ」を競うなら、もっと総合的な評価が必要ではないか。

鳥人間らしさを五角形のレーダーチャートで表すとするなら、「飛距離」は入るだろう。あとは「見た目」も入れておきたい。鳥っぽければ鳥っぽいほどいい。「鳴き声」も入れておこう。内面的な評価軸もほしい。「鳥目」とか。鳥は3歩歩くと忘れるというから「忘れっぽさ」も入れておこうか。

でも本当に忘れっぽい人がコンテスト会場に集ったら大変だ。「なぜ私は鳥の格好をして琵琶湖に…?」ってパニックになるだろう。でもパニックになればなるほど「忘れっぽさ」のポイントが高まっていく。ダントツの忘れっぽさで「鳥人間」の栄誉に輝いた人は、表彰台の上で首を傾げる。それがまた鳥っぽさを誘う。忘れっぽいからまた次の年もエントリーしちゃう。なんなんだこのコンテストは。