シュレディンガーの軽部

『めざましテレビ』に、めざましテレビを知らなかった新人アナが新たに加入するというニュースを見た。

なんでも、その新人アナの地元・青森県では『めざましテレビ』が放送されておらず、採用面接の時にはじめて軽部アナの存在を知ったほどだという。番組のチーフプロデューサーは「逆に面白い」と起用したそうだ。「なんでこんなタイミングでジャンケンするんですか?」とか思うだろうか。まるで異世界転生のような人事である。

で、ここで気になったのは「軽部アナの存在を知らなかった」ことだ。

青森県ではフジテレビ系列が映らないらしく、となればフジの局アナを知らないのも仕方ないだろう。ただ、私たちも果たして『めざましテレビ』以外で軽部アナを見るだろうか。見ないんじゃないか。そりゃ知らなくてもしょうがないのではないか。

私たちは『めざましテレビ』を見れば、そこに軽部アナの存在を感じることができる。朝方テレビをつけるまで、軽部アナはこの世に存在しているのかわからないと言い換えてもいいだろう。

つまり、テレビという箱の中の軽部アナは、存在している状態としていない状態が重なりあって存在しているのではないか。

それはまるであの猫のように…と思ったところで「今日のわんこ」と共に『めざましテレビ』は終わり、軽部アナの存在は再び宙に浮く。

鳥人間(らしさを総合的に評価する)コンテスト

今日『鳥人間コンテスト』があったのに見逃してしまった。どへくらい飛んだのだろう。子どものころ見た鳥人間コンテストはまだ「仮装部門」みたいなのがあって、面白い格好で高いところから飛ぶ人たちをしばらく見る時間があったりしたものだけど、今や琵琶湖の端に行って帰ってきて折り返してと異次元の世界である。関空から飛ばせてもらったら小豆島に着くんじゃないだろうか。

それにしても「鳥人間コンテスト」である。字面そのままを受け取れば「いかに鳥人間であるかを競うコンテスト」だろう。となると、テレビの「鳥人間コンテスト」は鳥について「飛ぶ」という一面しか見ていない。「鳥人間らしさ」を競うなら、もっと総合的な評価が必要ではないか。

鳥人間らしさを五角形のレーダーチャートで表すとするなら、「飛距離」は入るだろう。あとは「見た目」も入れておきたい。鳥っぽければ鳥っぽいほどいい。「鳴き声」も入れておこう。内面的な評価軸もほしい。「鳥目」とか。鳥は3歩歩くと忘れるというから「忘れっぽさ」も入れておこうか。

でも本当に忘れっぽい人がコンテスト会場に集ったら大変だ。「なぜ私は鳥の格好をして琵琶湖に…?」ってパニックになるだろう。でもパニックになればなるほど「忘れっぽさ」のポイントが高まっていく。ダントツの忘れっぽさで「鳥人間」の栄誉に輝いた人は、表彰台の上で首を傾げる。それがまた鳥っぽさを誘う。忘れっぽいからまた次の年もエントリーしちゃう。なんなんだこのコンテストは。

ニュース速報から鼓が

ニュース速報の音が聞こえてハッとテレビを振り返る。ウィルスが猛威をふるうこのご時世、いつなんどき何があるかわからない。そんな感じで神経研ぎ澄ませてステイホームしてきた昨今なのだけど、ここ1ヶ月そのニュース速報に振り回されている。オリンピックとパラリンピックです。

速報が入ったぞ…!と箸を運ぶ手を止め、じっとテレビを見つめると、誰かがメダルを取りましたよというニュース。めでたい。めでたいのだろうけど、心の中には半押しになったエマージェンシーのスイッチがあるのだ。速報にハラハラするのはこっちの勝手かもしれないが、かといって「またメダルでしょ」と速報を狼少年するわけにもいかない。「メダルを取ったぞ〜」と走ってくる少年。ちょっとかわいいけどもだ。

じゃぁこうしてみてはどうだろう。ニュースの内容によって速報の音を変えるのだ。事件事故災害などは今まで通りでいい。メダルを取ったとかめでたいニュースなら鼓をひとつふたつ鳴らす感じでどうか。テレビから急にポポポン!と鳴ったらめでたい感じがするんじゃないか。世界遺産に認定されたらポポポン!ノーベル賞を受賞したらポポポン!GDPが回復したらポポポン!景気がいい。

ただ問題なのは何をもって「めでたいニュース」とするかどうかだ。衆議院解散とか「えらいこっちゃ」の人もいればポポポン!の人もいるだろう。そういえばテレビに出る気象予報士は「いい天気」とは言わないらしい。農家をはじめ雨を欲している人もいるので、晴れ=いい天気ではないからだそうだ。そうなると金メダルを取ったニュースも全てポポポン!とはいかないかもしれない。金メダルを噛みたいほど憎い人もいるかもしれない。

もういっそ音がなくていいかもしれない。テレビの上を無音で右から左に流れてくれたらいい。長い文章は疲れるから短文にまとめてほしい。見逃すと困るから同じもの2回流してほしい。そういうのどっかで見た気がする。「まもなく三河安城」とかも流れていた気がする。

甘やかす概念だけ帰省

子どもたちの夏休みもいよいよ大詰め、というか夏休み自体は先週でとっくに終わっており、新型コロナ感染拡大のために8月いっぱい休校になってしまったのだった。夏のロスタイム。

しかしこの夏はほぼ家にいて、去年に引き続き帰省もしなかった。家族全員インドア派なので家時間をエンジョイして暮らしているものの、こんなに夏を持て余すこともない。ちょっとこれは景気づけにイベントを設けようと、「コンビニで好きなものどれだけ買ってもいい大会」を開いた。

客が少ないであろうお昼前、子どもたちと近所のコンビニに行き、食べたいものを片っ端からカゴにインしてよしとした。アイスも生ハムも全部ありである。「コーラ飲みたい」イン!「これ美味しそう」イン!「へぇジョブチューンで紹介されたんだ」イン!

パンパンになったレジ袋を下げて、みんなでウハウハで帰った。楽しかった。しかし考えてみるとこれは、実家に帰ってきた孫にやることではないか。「なんでも買っていいぞ」「お義父さんすいません…」「いいのいいの、たまのことだから」という魂のやりとりが発生するやつではないか。

ということはつまり、「子を甘やかす」ことによって、「孫を甘やかす」という帰省の概念だけを実現できるということだろう。時間も空間もそのままに「甘やかし」だけ帰省させるのだ。毎日好きなおかずを食卓に並べ、イオンでなんでも好きなものひとつ買ってやり、ティッシュに包んでお小遣いを渡すのだ。夏を甘やかす。それはとてもスイートな思い出になることだろう。ウハウハでコンビニから帰ったあの日も思い出になるといい。

ただ難点がひとつあって、帰省の甘やかしは帰宅によって解除されるのだが、家での甘やかしはリセットしにくい。時間も空間も地続きだから「今日も」「今日も」ってなる。寝る時間がだんだん遅くなる。朝起きてこない。明後日は始業式だぞ。おい、おいってば。

ルンバと慢心

ルンバから多くのことを学んだ一日だった。本当に今さらの今さらなのだけど、我が家に初めてルンバが来たのだ。来たのだと言ってもいきなり買ったわけでなくレンタルなんだけど(ルンバは公式サイトから2週間レンタルができる)。それが今日届き、開封し、充電し、家族全員が見守るなか起動した。

完璧じゃないのだ。動きが。うすうす知ってたけど、あっちに行き、こっちに行かず、またあっちに行く。同じとこに出たり入ったりして、あるいはなかなか出られなくなって、ブイーンと部屋を出たかと思うとまた帰ってくる。クルクル回って、ちょっと頑張って、自分で充電スタンドに戻る。その様子を家族で「あらあら」と見ていた。

「部屋を隅々まで自動で掃除する」という理想は100%叶わない。機械なのに完璧じゃない。それがそこそこの値段する。でもなんか「こういうものだよね」と思わされる。やっぱり部屋に物が多いですよね?とルンバのほうに合わせようと心が動く。人をおおらかり、寛容にするなにかがルンバにはある。ルンバをご利用の方はとっくにご存知だろうけど今さら知ったのだこれを。

自分より小さきものが失敗を繰り返す、そこに愛嬌を感じるのもあるだろう。何度もトライする姿に健気さも覚える。完璧人間より、ちょっと隙があるほうが愛される。でも失敗に「愛嬌」や「健気さ」を感じるのは、こちらに心の余裕があるからだ。「相手は自分を超えてこない」とどこかで思っているからではないか。自信にせよ、慢心にせよ。

たぶんルンバがこの先進化して、部屋も台所も洗面所も隅々まで巡り、障害物を完璧に避け、最短距離で充電スタンドに戻ったら、満足感より寒気がするんじゃないかと思う。簡単に言うと、引く。マジで…ってなる。だが機械の理想としてはその「引く」ゾーンがゴールだろう。AIが人間を超える超えないの議論もそこにあるだろう。超えたときに感じるのは畏怖だろう。

今も部屋の隅でルンバは静かに眠る。明日になったら少し賢くなっていて、その次の日、そのまた次の日とステップを登り、そして…。ルンバを笑って許せるのは今のうちかもしれない。ルンバを許せているのは自分に慢心があるからなのかもしれない。それとももうちょっとグレードの高いやつをレンタルしたらもっとちゃんと掃除してくれるのかなどうなんだ。

10円で買えるものの話

僕の世代で10円で買えるものと言えばチロルチョコで、バレンタインデーにチロルチョコをもらったことがある。祖母から100個入りを。

祖父母の家からちょっと歩いたところにお菓子問屋があったから、散歩で足を伸ばして買ってきたのかもしれない。100個入りってアレである。駄菓子屋の店頭でチロルチョコを売るときの、同じチロルチョコがぎっしり入ったアレ。開封前の箱は直方体で、中にチロルチョコが5個×5個×4段入っている。蓋を真ん中で折り返すと「チロルチョコ」というディスプレイが飛び出すようになっている。もちろん蓋は折り返し、家のリビングでお店に置いてある感じで置いて、毎日ちまちま食べた。嬉しかった。白と黒の包装紙のミルクだったはず。

10円で買えるものも何個も集まると迫力が出る。逆に考えればどんな高価なものでも細かく分ければ10円で買えるものの集合体になるはずだ。たとえば1000万のフェラーリを10円単位に切り刻んだらどれくらいの大きさになるのだろう。チロルチョコより大きいだろうか、小さいのだろうか。

フェラーリだった真っ赤な立方体をかき集めて、箱に詰め直そう。リビングに置いて、毎日ちまちまと1個ずつ取り出し、フェラーリに戻そう。でも1000万円を10円単位に分けるからパーツは100万個になる。100万日かかる。100万日は2740年くらいになる。それくらい続けるには子孫を残し続け、伝承を守ってもらわないといけない。保管のために社みたいな場所もいるだろう。僕が神みたいな存在になっちゃう。どうしよう。というか、そもそも人類は残っているだろうか。

誰もいない地球で赤い立方体が耀く。海が干上がっていて地球は既に青い星ではない。何万光年も先の星から見たそれはキラキラと赤く輝いているかもしれない。でもその輝きひとつには10円の価値しかない。

ルーマニアの祭りは「節分」か「なまはげ」か

ルーマニアでは年末に熊の毛皮をまとった人々が街を練り歩く、らしい。

朝に『突撃!カネオくん』の再放送でやってた。いろんな国の「クセつよ年越し」を紹介するコーナーだった。ルーマニアの熊、本物の毛皮だけあってかなりリアル(ここに写真もある)でも中身は子どもだったりしてかわいい。

しかしふと思った。この熊祭り、ルーマニアにとってどれくらいの規模なんだろう。

番組をぼんやり見ていると「ルーマニアの年末恒例行事!」みたいに思っちゃう。でも実は一部の地域の祭りなのかもしれない。日本で例えるなら節分の鬼クラスなのかなまはげクラスなのかでだいぶ印象が違うだろう。

裏を返せば、日本の地域の行事も「日本の恒例行事!」として海外で紹介されている可能性もある。そこでは日本全国になまはげが登場していることになっているかもしれない。

日本全国の各家庭になまはげを送り込むには、十分なリソースを確保せねばならないだろう。その実現には巨大ななまはげグループが必要不可欠だ。その組織構造はヒラのなまはげ2万人が支える始まるピラミッド構造になっていて、頂点に真っ黒のなまはげがいる。真っ黒のなまはげは誰もその姿を見たことがない。しかし組織に逆らうと「悪い子がいたね」と夜中に電話がくるとかこないとか。

そんなことを考えていたら、次の「クセつよ年越し」はオランダ。冬の海で寒中水泳をするのが恒例行事だという。

これも一部の地域の行事かも…と思ったらオランダ全土で200万人が参加するらしい。あまりの寒さに救急隊が駆けつける事態もあるとのこと。大丈夫かオランダ。寒い子はいねが。

知り合いかもしれないとInstagramが言う

「Instagramを利用している○○はあなたの知り合いかもしれません」という通知がちょくちょくくる。

でも確認すると全然知らない人ばかりなのだ。今日通知が来たのはコスメアカウントだった。毎日化粧品やネイルをアップしている。知り合いだとしても全く手がかりがないし、僕のインスタは路線図の写真ばかりアップしているので全く関連性がない。

いや、どちらも「色がいっぱいある」でしょうってことかな?整ったのかな?

そんな謎かけのノリで通知しないでほしいのだけど、もしかしたら本当に僕の知り合いの可能性だってある。ビッグデータがそうささやいているのかもしれない。でも覚えがない。

…忘れているのか?

思えば人の名前と顔を覚えるのが苦手だ。たとえ覚えていても「間違っていたら」と思うと本人に言う自信がない。それなのに向こうが僕の顔を覚えていることが多々ある。「井上さんですよね!」と言われてうろたえることがある。非対称だ。どういうことなんだ。

Instagramの「知り合いかもしれません」が、忘れているだけで本当に知り合いだったらどうしよう。ちゃんと確認しておきたい。でも 「僕と知り合いですか?」と聞くのも、知り合いだったら失礼だし、知り合いじゃなかったら「は?」だ。

逆に「久しぶり!」と接するのはどうか。向こうに「知り合いかも…?」と思わせるのだ。堂々と振る舞ったらいい。久しぶり!そのコスメ素敵だね。ところで誰だっけ?

そんな振る舞いをしたところでこっちは路線図の写真ばかりアップしているのだ。コスメの方には意味が分からないだろう。どちらも「線を引きます」ってことかなと思ってくれるかどうか。

まだ視力検査は「右」と言わせている

眼科に行く。2021年最初の診察日だったが、思ったより人がまばらだった。みんな目も休めただろうか。

今日は検査のために瞳が開く目薬をした。看護師さんに目薬をさされ20分くらいかけて徐々に視界がぼやけていき、最終的にプールからあがったばかりの視界になった。面白くもあり、ちょっと怖い。このまま視界が戻らなかったらずっとプール上がりの視界だ。全身がびちょびちょのまま生活する姿が浮かぶ(検査は異常なく、視界もやがて戻った)

それにしても、どれだけテクノロジーが発達しても視力検査は人に「右」と言わせているな、と思う。

目に数秒あててピピピと鳴ったら小さなディスプレイに「0.8」と出る、小さな機械がそろそろ発明されたっていい。でもそんなこともなく、視力検査は計られる人の主観にずっと任されている。適当に言った「右」がうっかり当たることもある。身長を適当に「178cmです」と言ったって認められることはないのに。

いつまでも主観に任されているということは、それなりに理由があるのだろう。目がカメラのレンズだとするならば、レンズは正常なのにセンサー(神経)に異常がある場合もあるだろうし、レンズもセンサーも正常なのにIC(脳)が像を結ばないことだってあるのだろう。

僕らが見ている景色は僕らにしかわからない。主観に任せたままの視力検査がそれを証明している。機械でピピピとわかる日が来たら、それは意識を外から観察できる日が来たときだろう。考えてることがわかっちゃう。それはそれで代償も大きい気がする。

今日は「右」と言ったあと「右〜?」って聞いてくる看護師さんだった。ヒントだ!ラッキー!と、「……上」と言い直したら「下です」という正解発表だった。浮かれた自分が恥ずかしい。でも「ヒントだ!」と浮かれた意識が外から観察されてなくてよかった。

年賀状が6枚戻ってきた

郵便受けをのぞいてびっくりした。

仙台から、熊本から、埼玉から、続々と年賀状が戻ってきている。住所に尋ねあたらないらしい。そんなにみんなそろって引っ越したのか。全然教えてくれないじゃないか。これがニューノーマルってやつ?と思ったら僕がおととしの住所録で年賀状を作っていただけだった。ひどい。

6枚の年賀状を並べて肩を落とす。いっそもう1枚戻ってきて、7枚揃ってほしい。その瞬間辺りは暗くなり、 7枚の年賀状が光り輝いたかと思うと、龍が立ち上るのだ。ひとつだけ願いを叶えるという龍に、年賀状を正しい住所に送り届けてほしいと願うんだ。「どれを?」龍が聞く。どれを…? マジか1枚しか送ってくれないのか。願いはひとつだけだからな。ちょっと待ってね、誰にしようか、遠くの人に送ったほうがいいのかな。いやこの人のほうがしばらく会ってないから…。

「ちょっと待ったぞ」

願いを叶えた龍が消える。7枚の年賀状が残される。僕の筆跡で「お元気ですか?」と書いてある。全く元気ではない。あけましておめでとうが届かない。住所録を最新にしてくださいってお願いすればよかった。